2011年9月 のアーカイブ | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

馬券の最高配当記録

最高額配当記録

中央競馬では2011年2月13日に開催された小倉競馬第4競走(16頭立て)において8番ゲティスバーグ(9番人気)→3番カリスマミッキー(15番人気)→13番シルクフラッシュ(6番人気)の順に入り、3連単の配当が1950万7010円(3360通り中3088番人気、総票数52万8645票中的中票数2票)となったのが最高記録である。

重賞競走では2008年10月19日に開催された「第13回秋華賞」の3連単の配当1098万2020円が史上最高額(牝馬限定重賞競走でも最高額)となっている。

重勝式では2011年5月22日での京都・東京の各第10競走、及び新潟・京都・東京の各第11競走を対象にしたWIN5での配当が1億4685万110円となっている。
この時の的中票数は6票だった。

地方競馬では2010年4月6日に開催された大井競馬第7競走(16頭立て)において15番ルドゥーテ(14番人気)→2番アーノルドツヨシ(4番人気)→13番グレイスレイラ(15番人気)の順に入り、3連単の配当が2488万720円(3360通り中3102番人気、総票数33万7137票中的中票数1票)となったのが最高額である。

この記録は中央・地方を両方を含めた国内競馬全体のみならず、国内の公営競技全体においても史上最高額である(重勝式を除く)。
重勝式では2010年1月31日に開催された帯広競馬(ばんえい競馬)第8-12競走での配当1022万2930円が最高額である。

馬券の高額配当

馬券の高額配当

配当が100倍を超える馬券、つまり100円あたりの払戻金が1万円を超える馬券のことを「万馬券」と言う。10万円(1000倍)を超えると10万馬券、100万円(1万倍)を超えると100万馬券、そして1000万円(10万倍)を超えると1000万馬券と言われ、記録的な高額配当の際には一般のニュースで報じられることさえある。

100倍を超える配当はかつてはあまり目にすることのないものであったが、2002年に誕生した馬番号三連勝複式(3連複)や、2004年に誕生した三連勝単式(3連単)の登場によりその機会は飛躍的に増大し、逆に100倍を超えないことが稀となっている。
2005年4月9日には福島競馬場で初の1000万馬券が発生した。

その1ヶ月後の5月13日には大井競馬場で史上2度目の1000万馬券が飛び出し、記録したばかりの最高配当記録が更新されるまでに至る。しかも的中したのは発売176157票中たったの1票(=100円)だけだった。

さらに10月22日には東京競馬場で1846万馬券が誕生、2000万馬券も間近という大万馬券となり2010年4月6日には大井競馬場で史上初の2000万馬券が誕生している。
様々な理由により(理由が明確にならないことも多い)、何年も続けて高額配当となる競走がある。

世界の馬券事情

馬券の世界の事情

イギリスにおいてはサッカーに次いで発売金額が多いスポーツであり、またギャンブルが禁止されている国においてもイスラム圏を除き競馬は例外的に認められている場合がある。一方でギャンブルとしての側面があるために、しばしば他のスポーツと比べて俗悪なものとして見られがちである。
イギリスのブックメーカーが競馬場で発生して以来、競馬はギャンブルとのつながりが深く保たれている。しかし現在ではパリミュチュエル方式による主催者が胴元として統括する賭博が世界的な主流となっており、ブックメーカーを認可している地域はあまり多くない。

日本においても洋式競馬が導入された19世紀から既に勝馬投票券(馬券)が発売されており、一方でブックメーカーはノミ行為として違法とされている。
勝馬を予想する方法については、古くからさまざまな模索がなされてきた。

馬券の販売は、主に発売対象の競走を開催している競馬場(本場)、もしくは同主催者の他競馬場、WINSなどの場外勝馬投票券発売所、および提携している他の主催者の競馬場などで購入できる。また電話投票会員となり、電話やインターネットを利用して投票することも可能である。

特にノミ屋などの私設馬券販売を防止するために、在宅投票の拡大が推奨されている。
競馬の開催における馬券販売は各国の法律で規制されており、以下のように異なっている。

競馬

競馬(けいば、英: horse racing)は、騎手の乗った馬により競われる競走競技、およびそれの着順を予想する賭博である。

競馬は主に競馬場と呼ばれる専用の競技場で開催される。一つ一つの競い合いを「競走(race)」と呼び、一日の競馬開催でいくつかの競走が行われる。

決勝線への到達は、概ね馬の鼻の先が決勝線を通過したときをもって判定されるが、ばんえい競走に限っては馬が引っ張るソリの最後部が決勝線を通過したときをもって判定される。

用いられる競走馬は平地や障害、速歩競走ではサラブレッド、サラブレッド系種、アラブ、アングロアラブ、アラブ系種の軽種馬もしくはクォーターホース、スタンダードブレッド(アメリカントロッター)等の中間種が用いられ、ばんえい競走では重種馬が用いられる。

競馬の世界は優勝劣敗が大原則であり強い馬は強い馬同士、弱い馬は弱い馬同士での競走が基本である。だが、競走の出走メンバーのみを変更するには限界がある。

そこで考え出された方法として強い馬には重い負担重量を、弱い馬には軽い負担重量となるように負担重量を変更することである程度幅のある競走を組むことができる。負担重量の決定方法としては馬齢戦、別定戦、定量戦、ハンデキャップ競走などもある。

特別競走の中でも特に賞金が高額で歴史と伝統・競走内容等を考慮し、重要な意義を持つ競走として 重賞が行われる。さらに各重賞競走の役割と重要性を広く認識してもらい生産界の指標としての重賞競走の位置づけを明確にするため、グループ制(日本を含む一部の国ではグレード制)によってG1、G2、G3に分類される。

G1は競走体系上もっとも重要な意義をもつ根幹競走、G2はG1に次ぐ主要な競走でG1の勝ち馬も比較的容易に出走できる内容をもった競走である。G3についてはG1、G2以外の競走である。

G1競走(およびそれに類する格付けの競走)の中でも、3歳馬に対して行われる伝統のある競走をクラシックと呼ぶ。2010年現在、世界各地でクラシックと呼ばれる競走が行われているが多くの国が最初に始められたイギリスのクラシックレースを模範としている。

イギリスのクラシックは全5競走であるがうち2競走は牝馬限定戦であり牡馬が出走可能な2000ギニー、ダービー、セントレジャーの3競走すべてに優勝した競走馬を三冠馬という。ただし生産上の意味合いが薄れ、また距離別の路線が体系化されたこともあって三冠の概念は形骸化している。

なお、日本のクラシック競走も全5競走である。

競馬の歴史

競馬の起源

ウマの速さを競わせること自体は有史以前、ウマが家畜化された頃から行われていたと考えられている。古代ローマ帝国およびそれを引き継いだ東ローマ帝国などでは、映画『ベン・ハー』に見られるような戦車を引いたウマによる競走(現在行われている繋駕速歩競走は、この戦車競走の伝統を引き継いだものである)が行われていた。

近代競馬の歴史

正式のルールに基づき専用の競技用施設(競馬場)において行われる競馬(近代競馬)は16世紀のイングランドに始まったとされ17世紀にはフランスやアイルランド、19世紀にはドイツやイタリアでも行われるようになった。また17世紀以降は、ヨーロッパ諸国の植民地であった国々を中心に、アメリカ・アジア・アフリカ・オセアニアなどの地域においても近代競馬が行われるようになった。

競馬において用いられる競走馬については17世紀後半から18世紀にかけてアラブ種やトルコ馬、バルブ馬などがイギリスへ輸入されて品種改良が行われ、やがてサラブレッドと呼ばれる品種が誕生した。サラブレッドについては1791年にジェネラルスタッドブックと呼ばれる血統書が作成され、以後その生産において血統が重視されるようになった。

東京盃でスーニが勝ちましたね!

2番手からラブミーチャンが、直線を向いて楽々と先頭にたちました。

そこを内からスーニが一気に差し切りました。1分10秒9のタイムで、交流重賞連勝です。

 「またスーニとともにJBC(09年にV。11月3日・大井)を狙いたい」と騎乗した川田騎手は語っています。
 2着にラブミーチャン、3着には大外を突っ込んだマルカベンチャーが入りました。

今回の勝利の元は、川田騎手の好騎乗ですね。
あの展開では、直線でイン突いたから勝てたんですね。スーニ。

スーニは3年連続の東京盃出走でしたが、
11着に惨敗した4月の東京スプリント以後かなり調子が上がってきていたようでした。それを川田騎手が見事に
引き出しましたね。

【スーニの1200mの戦績】
08年2歳新馬 55キロ1着
09年東京盃 54キロ2着
10年東京スプリント 58キロ1着
10年東京盃 58キロ5着
10年カペラS 58キロ7着
11年東京スプリント 58キロ11着

小西一男

小西一男は、
中山で生まれ育ち、幼少時より馬に近い環境にいた一男は「馬世界の外で生きることは考えもつかなかった」と後に語る。
父登は太平洋戦争末期の1944年に騎手デビューするも、兵役などのため実働僅か1年余り、通算66戦0勝という成績に終わっており[1]現役未勝利だった自分の代わりに一男がレースで躍動することを望み、息子の騎手願望に対し反対は全くしなかったという。

後に登は一男の騎手デビューに発奮し1977年に調教師免許を取得し厩舎を開業、自らの要望により一男を自厩舎に所属させた時期もあった。
馬事公苑長期養成課程を経て1974年3月一男は騎手デビューを果たす。

デビュー1週間後に初勝利をあげ、父登が手にできなかった勝ち鞍を手にした一男であるが、重賞勝利などの特筆すべき実績を挙げるには至らず、騎手として大成できなかったのは「環境云々以前に自分に適性がなかった」と述べ、16年間で1362戦92勝という成績に終わり、調教師免許取得に伴い1989年12月を以って現役を引退している。
4度目の挑戦で調教師免許に合格した一男は1991年3月、定年退職した鈴木勝太郎厩舎を継ぐ形で美浦に開業。

3月2日に初出走、同年6月23日に初勝利を挙げる。1994年管理馬から重賞ホルダー、GI出走馬を輩出。

この他1990年代には中央・地方双方で活躍馬を擁し、1993年から2010年にかけ毎年2桁勝利を維持し続けている。

小西一男 騎手成績

日付競走名競馬場馬名頭数人気着順
初騎乗1974年3月2日アラブ4歳未勝利中山ヒシリキス7-6着
初勝利1974年3月10日アラブ4歳未勝利中山ヒシリキス--1着
重賞初騎乗1974年6月16日セイユウ記念中山ヒシリキス15頭63着
GI級初騎乗1982年4月18日皐月賞中山タケデンフドー20頭144着
通算1362戦92勝
小西一男 調教師成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走1991年3月2日2回中山3日2R4歳未勝利ミニヨン16頭1111着
初勝利1991年6月23日1回福島4日3R4歳未勝利サロマブルー10頭21着
重賞初出走1994年2月19日1回東京7日11RフェブラリーSトモエボンバー16頭97着
重賞初勝利1994年11月12日5回東京3日11R京成杯3歳Sゴーゴーナカヤマ11頭21着
GI初出走1994年5月22日3回東京2日10R優駿牝馬マイネマジック18頭125着
小西一男 主な管理馬
ゴーゴーナカヤマ(1994年京成杯3歳ステークス)
スピードワールド(1997年京成杯)
デュークグランプリ(1997年武蔵野ステークス、ダイオライト記念、ブリーダーズゴールドカップ、1998年東海菊花賞)
スーパーナカヤマ(1998年ガーネットステークス)

小島太

小島太は、
美浦トレーニングセンター所属。騎手時代は「サクラ」を冠名とする全演植(ジョン・ヨンシュク)所有馬の主戦騎手を務めた。

1947年、馬商と装蹄師を兼ねる一家の次男として生まれる(JRAの発表では、誕生日が4月11日となっているが、騎手養成所に入る際の手続きにミスがあったもので、実際は21日)。家業の関係から幼少期より馬に親しんで育ち、7歳の時にゴールデンウエーブが優勝した東京優駿 (日本ダービー)を見て騎手を志す[1]。

中学校卒業後に上京し、日本中央競馬会の馬事公苑騎手養成長期課程に第14期生として入所。同期には 田島良保、安田富男、目野哲也、平井雄二、池上昌弘(安田は2年、平井は3年、池上は1年遅れでデビュー)らがいる。
騎手課程修了後に東京競馬場の高木良三厩舎に入り、1966年3月に正騎手としてデビュー、7月に初勝利を挙げた。この年は11勝に留まったが、翌年には重賞3勝を含む37勝と躍進。

翌年にはサクライワイで函館3歳ステークスを制し、演植に初の重賞をもたらした。以降も安定して年間40勝程度を挙げる中堅上位騎手として定着。

同期の池上がこの頃より重賞を勝てなくなり、騎乗数も徐々に減ったのとは対照的な活躍振りであった。1978年にはサクラショウリで東京優駿に優勝、八大競走初制覇を幼少期の憧れであったダービーで果たした。

以降もサクラユタカオー、サクラチヨノオーなど「サクラ」の馬を中心に活躍を続けた。1988年にはサクラチヨノオーで自身2度目の東京優駿優勝を果たした。


小島太 サクラユタカオーに騎乗
天皇賞出走時(1986年4月29日)
1993年に全が死去すると、その9日後にサクラバクシンオーでスプリンターズステークスに優勝した。翌1994年12月には、サクラキャンドルで中央競馬史上12人目の通算1000勝を達成。

デビューから28年8ヶ月での達成は、最も遅い記録である。
翌1995年秋に騎手引退を発表、その後サクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹でGI競走2勝を挙げ、1996年2月25日を以て騎手を引退した。

通算1024勝は歴代14位記録(当時)。主戦騎手を務めていた「サクラ」の騎乗馬は、横山典弘、蛯名正義等に引き継がれた。
騎手引退後は調教師に転向。1997年、「サクラ」の主戦調教師であり、義父でもあった境勝太郎の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で美浦トレーニングセンターに小島太厩舎を開業した。

調教師としては演植から代替わりした全尚烈の所有馬に加え、「カフェ」を冠名とする西川清の所有馬を数々管理しており、 2000年の共同通信杯4歳ステークス[4]、NHKマイルカップ をそれぞれイーグルカフェで制し、厩舎の重賞・GI競走初勝利を挙げている。その後もGI競走3勝を挙げたマンハッタンカフェなどを管理し、西川が使用する勝負服色(黄色と黒が基調)を厩舎のジャンパーに採用するなど、深い関係を続けている。
人物・エピソード

小島太 騎手時代のエピソード
騎手としての特徴
当時最多勝タイ記録であった東京優駿2勝をはじめ、通算1024勝のうち84勝を重賞で挙げており、ヨーロッパスタイルを取り入れた派手な騎乗フォームもあって「華のある男」と称された。他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あり、「猫とフトシは呼んでも来ない」等と揶揄され[5]、ファンからの好悪がはっきり分かれる騎手であった[6]。

騎手としては野平祐二の影響を強く受けており、ヨーロッパスタイルを取り入れた事も、海外経験豊富であった野平に感化されてのものだった[7]。1983年からは毎年8月にフランスへの遠征を行っており、同地では1990年にドーヴィル競馬場で勝利を挙げている。

小島茂之

小島茂之 は、


2003年(平成15年):厩舎開業。
2008年(平成20年):管理馬であるブラックエンブレムが第13回秋華賞を制覇した。
2009年(平成21年):管理馬であるクィーンスプマンテが第34回エリザベス女王杯を制覇した。
ブラックエンブレムやクィーンスプマンテは直前に栗東で調教した『栗東留学』でGIを制しており、栗東の施設を積極的に活用している調教師の一人である。
なお、GIを制した2勝はいずれも11番人気で共に3連単が100万円を超える波乱を演出している。

第13回秋華賞ではブラックエンブレムと共に出走したプロヴィナージュ(16番人気)が3着に入り、GI史上最高配当となる3連単10,982,020円の大波乱(1,000万円馬券)を演出した。

小島茂之 調教師成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走2003年3月1日3回中山1日3R3歳未勝利アイアイラッキー15頭34着
初勝利2003年5月18日1回東京8日2R3歳未勝利アイアイラッキー11頭61着
重賞初出走2003年3月15日1回阪神5日10R阪神SJヒカルボシ14頭64着
重賞初勝利2008年3月22日2回中山7日11RフラワーCブラックエンブレム16頭11着
GI初出走2005年4月17日3回中山8日11R皐月賞ストラスアイラ18頭1814着
GI初勝利2008年10月19日4回京都4日11R秋華賞ブラックエンブレム18頭111着
小島茂之 主な管理馬

ブラックエンブレム(2008年秋華賞優勝)
プロヴィナージュ(2008年秋華賞3着)
クィーンスプマンテ(2009年エリザベス女王杯優勝)

小島貞博

小島 貞博(こじま さだひろ、1951年11月10日 - )は、日本中央競馬会(JRA)・栗東トレーニングセンターに所属する調教師、元騎手である。
戦後デビューの騎手の内、平地・障害それぞれの最高級競走である東京優駿(日本ダービー)と中山大障害で2勝ずつを挙げている唯一の騎手である[注 1]。
調教師としても2005年の最優秀障害馬テイエムドラゴンなどを管理している。
小島貞博 少年期

1951年、北海道新冠町にサラリーマン家庭の長男として生まれる[1]。中学時代から静内町の牧場で住み込みのアルバイトをしながら暮らし、身体が小さかったため、同場の従業員から騎手になることを勧められていた[1]。

中学3年生の時、馬を買い付けに来ていた馬主の谷水信夫に出会い、騎手になるため谷水のいる京都に移った[1]。谷水と懇意であった調教師の戸山為夫を紹介された後、東京都馬事公苑の中央競馬騎手養成長期課程に第17期生として入所、上京に際しては事実上の兄弟子となる鶴留明雄が保護者代わりに付き添った[2][注 2]。

小島貞博 騎手時代
1971年に騎手免許を取得し、同年3月に戸山厩舎所属としてデビュー、同6月に初勝利を挙げた。デビューからしばらくは平地競走を中心に騎乗していたが、障害の名手であった鶴留が1978年に引退したことに伴い、障害での騎乗を増やしていった[3]。

小島は引退を考え始めたが、当時有力な調教師となっていた鶴留明雄が、この状況を聞きつけて小島の支援を始め、鶴留厩舎に所属する有力馬の主戦騎手を任されるようになった[6]。1994年には同厩舎所属のチョウカイキャロルに騎乗し優駿牝馬を制覇。

以後は若手騎手の台頭などもあり、1997年からは一桁の勝利数を続けた。1996年から調教師免許試験の受験を始めており[8]、2001年に調教師免許を取得し、騎手を引退した。

調教師試験の合格時の会見には戸山の未亡人も同席して喜びを共にした。騎手成績は通算4722戦495勝。

そのうち重賞はG1競走5勝を含む27勝だった。
小島貞博 調教師時代
免許取得当時は管理馬房に空きがなく、技術調教師[注 3]として2年過ごした後、2003年に栗東トレーニングセンターに厩舎を開業した。
初年度から15勝を挙げる順調な滑り出しを見せ、2005年には娘婿の田嶋翔が手綱を取るテイエムチュラサンがアイビスサマーダッシュに優勝、調教師として重賞初勝利を挙げた。またテイエムドラゴンが中山大障害に優勝し(騎手時代に続いての制覇)、同年のJRA賞最優秀障害馬部門を受賞した。
その言葉通り、小島と弟弟子の小谷内秀夫は、厳しい師弟関係の傍らで「本当の父親以上の愛情をもって接していただいた」と、戸山の死後出版された著書に寄せている[10]。
また戸山は、「調教師というのは、少なくとも師匠と言われるからには、人を育てることも大きな仕事である[11]」という信念に基づき、必ずしも成績上位ではない両者を起用し続け、馬主に対しても、管理に際しては両者を専属騎手とする契約を結ばせていた[12]。

小島と小谷内は件の寄稿において、感謝の念とともに「師匠は『それがオレの信念だ』と当然のような顔をしていたが、私たちのレースぶりを見て、心の中で歯ぎしりすることも多かったのではないかと思う。私たちがそれに十分報いることができなかったのが残念である[10]」と反省を述べた。

小島は調教師転身に当たり、「馬が走るのはもちろんですけど、人づくりの面もいつも頭に入れておきたいですね。余裕ができたら、騎手を育ててみたいと思っています[14]」と語り、開業後は自厩舎に所属した田嶋翔を積極的に起用し続けている。

小崎憲

小崎憲は、
2007年3月、厩舎を開業する。初出走は、3月10日でノーモアクライが2着となり、翌11日、ワンダープロが勝利し延べ3頭目での初勝利となった。
2007年5月、第52回京王杯スプリングカップをエイシンドーバーが制しJRA重賞初勝利を挙げる。厩舎開業からわずか2ヶ月余りでの快挙となった。
2008年10月、金沢競馬場で行われた白山大賞典をスマートファルコンで制し、交流重賞初勝利をあげた。

小崎憲 調教師成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走2007年3月10日1回中京3日9R4歳上500万下ノーモアクライ16頭32着
初勝利2007年3月24日1回阪神6日8R4歳上500万下ワンダープロ16頭101着
重賞初出走2007年4月7日2回阪神5日11R阪神牝馬Sサウスティーダ10頭610着
重賞初勝利2007年5月12日2回東京7日11R京王杯SCエイシンドーバー18頭51着
GI初出走2007年6月3日3回東京6日11R安田記念エイシンドーバー18頭66着
 
小崎憲 主な管理馬
エイシンドーバー(2007年京王杯スプリングカップ)
エイシンロンバード(2007年武蔵野ステークス)
スマートファルコン(2008年白山大賞典、彩の国浦和記念、兵庫ゴールドトロフィー、2009年佐賀記念、名古屋大賞典、かきつばた記念、さきたま杯、ブリーダーズゴールドカップ、2010年JBCクラシック、東京大賞典、かきつばた記念、さきたま杯、2011年ダイオライト記念、帝王賞)
エーシンヴァーゴウ(2011年アイビスサマーダッシュ、セントウルステークス)
小崎憲 エピソード

2011年4月、長男が競馬学校に30期生として入学した[1](同期入学に木幡初広騎手の長男らがいる)。

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