小島太 | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

小島太

小島太は、
美浦トレーニングセンター所属。騎手時代は「サクラ」を冠名とする全演植(ジョン・ヨンシュク)所有馬の主戦騎手を務めた。

1947年、馬商と装蹄師を兼ねる一家の次男として生まれる(JRAの発表では、誕生日が4月11日となっているが、騎手養成所に入る際の手続きにミスがあったもので、実際は21日)。家業の関係から幼少期より馬に親しんで育ち、7歳の時にゴールデンウエーブが優勝した東京優駿 (日本ダービー)を見て騎手を志す[1]。

中学校卒業後に上京し、日本中央競馬会の馬事公苑騎手養成長期課程に第14期生として入所。同期には 田島良保、安田富男、目野哲也、平井雄二、池上昌弘(安田は2年、平井は3年、池上は1年遅れでデビュー)らがいる。
騎手課程修了後に東京競馬場の高木良三厩舎に入り、1966年3月に正騎手としてデビュー、7月に初勝利を挙げた。この年は11勝に留まったが、翌年には重賞3勝を含む37勝と躍進。

翌年にはサクライワイで函館3歳ステークスを制し、演植に初の重賞をもたらした。以降も安定して年間40勝程度を挙げる中堅上位騎手として定着。

同期の池上がこの頃より重賞を勝てなくなり、騎乗数も徐々に減ったのとは対照的な活躍振りであった。1978年にはサクラショウリで東京優駿に優勝、八大競走初制覇を幼少期の憧れであったダービーで果たした。

以降もサクラユタカオー、サクラチヨノオーなど「サクラ」の馬を中心に活躍を続けた。1988年にはサクラチヨノオーで自身2度目の東京優駿優勝を果たした。


小島太 サクラユタカオーに騎乗
天皇賞出走時(1986年4月29日)
1993年に全が死去すると、その9日後にサクラバクシンオーでスプリンターズステークスに優勝した。翌1994年12月には、サクラキャンドルで中央競馬史上12人目の通算1000勝を達成。

デビューから28年8ヶ月での達成は、最も遅い記録である。
翌1995年秋に騎手引退を発表、その後サクラチトセオー、サクラキャンドル兄妹でGI競走2勝を挙げ、1996年2月25日を以て騎手を引退した。

通算1024勝は歴代14位記録(当時)。主戦騎手を務めていた「サクラ」の騎乗馬は、横山典弘、蛯名正義等に引き継がれた。
騎手引退後は調教師に転向。1997年、「サクラ」の主戦調教師であり、義父でもあった境勝太郎の定年引退に伴い、管理を引き継ぐ形で美浦トレーニングセンターに小島太厩舎を開業した。

調教師としては演植から代替わりした全尚烈の所有馬に加え、「カフェ」を冠名とする西川清の所有馬を数々管理しており、 2000年の共同通信杯4歳ステークス[4]、NHKマイルカップ をそれぞれイーグルカフェで制し、厩舎の重賞・GI競走初勝利を挙げている。その後もGI競走3勝を挙げたマンハッタンカフェなどを管理し、西川が使用する勝負服色(黄色と黒が基調)を厩舎のジャンパーに採用するなど、深い関係を続けている。
人物・エピソード

小島太 騎手時代のエピソード
騎手としての特徴
当時最多勝タイ記録であった東京優駿2勝をはじめ、通算1024勝のうち84勝を重賞で挙げており、ヨーロッパスタイルを取り入れた派手な騎乗フォームもあって「華のある男」と称された。他方、人気馬に騎乗してあっけなく敗れることも度々あり、「猫とフトシは呼んでも来ない」等と揶揄され[5]、ファンからの好悪がはっきり分かれる騎手であった[6]。

騎手としては野平祐二の影響を強く受けており、ヨーロッパスタイルを取り入れた事も、海外経験豊富であった野平に感化されてのものだった[7]。1983年からは毎年8月にフランスへの遠征を行っており、同地では1990年にドーヴィル競馬場で勝利を挙げている。

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