福永 祐一 エピソード | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

福永 祐一 エピソード

福永 祐一エピソード
父・洋一の兄弟である伯父には競馬関係者が多い。

長兄・甲はJRAの元騎手・元調教師、次兄・二三雄は大井競馬の元騎手、三男・尚武は船橋競馬の元騎手である。洋一は四男。
母の弟である叔父にも元・騎手の北村卓士がいる。
子供の頃から栗東の福永家は武家と隣同士であり、武豊(豊は厳密には京都市伏見区出身)や武幸四郎とはご近所さんの間柄だった。

しかし、直前に負った足の骨折で体力試験をパスできずに不合格。これにより福永は幻の11期生となったが、その後1年間近江兄弟社高等学校に通い、翌年に再受験し合格したため、1歳年上の細江純子以外の同期生は福永より1歳年下である。
また2・3歳戦が得意で、そのことは本人も自負している。実際、2・3歳の重賞(特に牝馬限定戦)でも上位の戦績を誇る。

特に2002年は2歳馬のGI(阪神ジュベナイルフィリーズ:ピースオブワールド、朝日杯フューチュリティステークス:エイシンチャンプ)を両方とも制覇している。
優駿牝馬(オークス)では2004年から4年連続連対(3勝2着1回)という驚異的な成績を残していた。

2007年の同競走を外国産馬のローブデコルテで勝利した時のTV中継での勝利インタビューで、「オークス3勝目、相性いいですね」の問いに対して「新オークス男です」と語った。
小倉で行われる2歳オープン戦・フェニックス賞に強く、2001年から2007年までで6勝2着1回という成績を残し2003年から2007年まで5連勝を記録していた(これは武豊の若駒ステークス5連勝、河内洋の万葉ステークス5連勝に並ぶ同一特別競走の最多連勝タイ記録である)。

本人曰く「フェニックス男」である(ABCラジオ・オン・ザ・ターフ!より)
なお2007年は後述のとおり主戦を務めた前年の北橋厩舎に続き瀬戸口厩舎が解散することで(両厩舎とも夏競馬は小倉競馬場を主戦場にしていた)、夏競馬については新潟競馬場を主戦場にする旨を仄めかし(実際にその通りにしていた)、記録達成する意思が無いように述べていたが、ビーチアイドルの前走に騎乗した武豊が欧州遠征でフェニックス賞に騎乗出来ないために、祐一が騎乗することとなり、5連勝・7年連続連対を達成した。

2007年の天皇賞・秋ではカンパニーに騎乗したが最後の直線でコスモバルクが左右によれたことにより不利を受けたとされ、地方競馬所属で同馬の騎手である五十嵐冬樹に対し「コスモバルクは毎回、毎回やっている。五十嵐さんはG1に乗る騎手じゃない。

と発言したと報道され一部で物議を醸したが、本人はこの発言を否定している。
逆に翌年の日本ダービーで、福永はモンテクリスエスに騎乗し1コーナーでかなりの斜行をしている。

被害馬は同レース3着のブラックシェルであったが、騎乗していた武豊騎手は「1コーナーをスムーズにいければあるいは…」という談話を残している。
テレビゲームマニアで、幼少の頃は信長の野望シリーズや三國志シリーズ(どちらもコーエー)に熱中していた他、「イメージトレーニングのため」と称して『ジーワンジョッキー』シリーズ(コーエー)をプレイすることが多いという。

『ジーワンジョッキー』ではゲーム中に自分自身が実名で登場するため、自分の名前ではなくエディット機能を使用して父・洋一の名前でプレイしている。
小学校時代、体育で縄跳びが苦手で、二重跳びが全くできなかった。

これは2010年4月18日に中山(皐月賞終了後)のファンイベントで明らかになったものだが、そのイベントで二重跳びが1回だけだが成功した。
2010年5月10日に高知競馬場で行われた第1回「福永洋一記念」(父の名を冠したレースが、息子である本人の熱意によって実現)。

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