鶴留 明雄 | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

鶴留 明雄

鶴留 明雄(つるどめ あきお、1941年3月27日 - )は、日本中央競馬会(JRA)に所属する調教師、元騎手。

1959年に騎手デビュー、障害競走を中心に騎乗し、ヤマニンダイヤによる1967年中山大障害(秋)など障害重賞4勝を含む152勝(うち障害93勝)を挙げた。騎手引退後の1978年より調教師として開業、1995年の東京優駿(日本ダービー)の優勝馬タヤスツヨシ、2005年の宝塚記念などGI級競走3勝を挙げたスイープトウショウなど、数々の活躍馬を管理している。
1年次の2学期途中、小柄であったことから馬術部所属の上級生より騎手になることを勧められ、家族の反対を押し切って中央競馬の騎手養成長期課程を受験した[1]。合格後、高校を中退して東京都馬事公苑に騎手候補生として入った。

10月に初騎乗を迎え、翌1960年4月9日にカチヒメで初勝利を挙げた。当初は平地競走で主に騎乗していたが、骨太の体格で体重を56kg以下に落とすことができず[2]、斤量が重い障害競走へ主戦場を移していった。

1967年、ヤマニンダイヤで障害の最高競走・中山大障害(秋)に優勝。以後も障害を中心に騎乗を続ける傍ら、戸山の勧めで調教師を目指して勉強を始め[2]、1977年に調教師免許を取得。

管理馬房の空きを待って1年4カ月を技術調教師として過ごしたのち、1978年7月、栗東トレーニングセンターに厩舎を開業。10月15日にアウンエスラーで初勝利を挙げた。

同馬は翌1979年、同馬で京都大障害(秋)を制して調教師としての重賞初勝利も挙げた。
年間成績では10-15勝前後の中堅下位といった成績であったが、1985年にリワードウイングが牝馬三冠路線の最終戦・エリザベス女王杯を制し、騎手生活から通じての平地重賞初勝利をGI級競走で挙げた。

この頃より成績が上向き始め、1987年には24勝を挙げて関西の優秀調教師賞を受賞。重賞でも毎年勝利を挙げ、1991年にはシスタートウショウで桜花賞に優勝、1994年にはチョウカイキャロルで優駿牝馬(オークス)に優勝し、調教師として史上4人目の「牝馬三冠」を達成した。

同年、自己最高の年間29勝。翌1995年にはタヤスツヨシで東京優駿(日本ダービー)を制し、ダービートレーナーともなった。
2004年には、武田厩舎の兄弟子・渡辺栄の定年引退に伴い、管理を引き継いだスイープトウショウが秋華賞に優勝。同馬は翌2005年に牝馬として史上2頭目・39年ぶりとなる宝塚記念制覇を達成。

本当にいい厩舎に所属できたし、恵まれていたと思っています」と語っている[5]。また一方では騎乗数を減らしたベテランへの支援も行い、特に小島貞博を厩舎の主戦騎手に抜擢し、チョウカイキャロルでオークス、タヤスツヨシでダービー優勝の栄誉へ導いたことが知られる。

騎手生活晩年に不遇を囲ったという久保敏文も、「ぼくが乗る馬がなくて苦労したときに、一番助けてくれたのが鶴留先生」と語る[6]。こうした傾向は武田門下の気風ともされており、作家の木村幸治は鶴留を、「やはり武田文吾の影響を受け継いだ、古風かもしれないが、義理人情の調教師といえる」と評している。

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