田島 良保 | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

田島 良保

田島 良保(たじま よしやす、1947年10月17日 - )は、日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニングセンター所属の調教師、元騎手である。騎手時代は数々の名騎乗を残し、「必殺仕事人」と称された。鹿児島県出身。騎手の川島信二は娘婿。
生家の近所には牧場があり、幼少期から馬に親しんで育った[1]。中学校卒業後、馬事公苑騎手養成長期課程に第14期生として入所。

当時のダービーは最大28頭が出走し、第1コーナーで10番手以内に位置しなければ勝機はないと言われた時代であったが、田島はこの常識を覆し、勝利騎手インタビューでは「僕はダービーに乗ったんじゃない。ヒカルイマイに乗ったんだ」という言葉を残した。

なお、馬事公苑長期騎手過程14期生の八大競走制覇も池上に次いで2番目であった。
1973年には、田島が自身の騎乗馬で最強と評した[3]ハマノパレードで宝塚記念に勝利。

本命のタイテエムを破り、また「追い込み得意」と見られていた従来の田島のイメージを覆す、逃げ切りでの勝利であった。これを見た関西テレビのアナウンサー杉本清が「必殺仕掛人」という渾名を与え、以後これが田島の異名として定着する。

1980年にはノースガストで菊花賞を制し、戦後生まれの騎手として初のクラシック三冠騎手となる。また、杉本が「大物キラー」とも評した通り、穴馬で本命馬を退ける騎乗も数々あった。

1986年のマイルチャンピオンシップでは、6番人気の評価であった牝馬タカラスチールでニッポーテイオーに勝利。1989年の優駿牝馬(オークス)では10番人気のライトカラーに騎乗し、当時デビュー3年目の武豊が騎乗するシャダイカグラを競り落としている。

1993年、栗東トレーニングセンターに厩舎を開業した。初出走は同年3月13日小倉競馬第4競走にアイノウーマンで6着、初勝利は翌3月14日阪神競馬第3競走のアイノクレールで、延べ2頭目であった。

田島 良保という人物
「仕事人」という異名の通り、職人気質で頑固な人物として知られ、騎乗の研鑽に非常に真摯に取り組んだ。「必殺仕事人」の考案者である杉本清は、「とにかく真面目な男だった。

自分ではヘンコ(=偏屈)と言っていたけど、良保の競馬に対する考え方には、たかが競馬という意識はなかったと思う。(中略)せこくない、ずるくない、自分にも、他者にも競馬にも厳しかった」と評している。

弟弟子の田原成貴は、自身の騎乗イメージの原点として田島がハマノパレードを駆った宝塚記念を挙げており、田島を騎乗の手本としていた[5]。一方で、田島が田原に語っていた騎乗論は、そのレベルの高さゆえに自身が一流騎手に成長するまでは理解できなかったともいう。

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