騎手 わ行 | 競馬商材検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

和田 竜二

和田 竜二(わだ りゅうじ、1977年6月23日 - )は日本中央競馬会 (JRA) 栗東トレーニングセンター所属の騎手。
1996年栗東・岩元市三厩舎所属騎手としてデビュー、同年12月にステイヤーズステークスをサージュウェルズで制し、花の12期生の中では最初に重賞を制覇するなどデビュー年は33勝を挙げ、関西新人騎手賞を獲得している。
1999年の皐月賞をテイエムオペラオーで制しGI初制覇、翌2000年には京都記念→阪神大賞典→天皇賞(春)→宝塚記念→京都大賞典→天皇賞(秋)→ジャパンカップ→有馬記念、と見事に重賞を8連勝して前人未到の古馬GIグランドスラムという大記録を達成するなど大活躍。

テイエムオペラオー引退後はG1勝利こそ無いものの、毎年30勝以上をコンスタントに稼ぎ、2005年には自身初の年間50勝越えも達成した。現在では関西リーディングの上位にも名を連ねるほどの成績を挙げている。

渡辺 薫彦

渡辺 薫彦(わたなべ くにひこ、1975年4月5日 - )は日本中央競馬会(JRA)沖芳夫厩舎所属の騎手。
戸籍上での表記は渡邊である。
妻は関西テレビ『ドリーム競馬』の司会を務めていた水野麗奈。

栗東トレセン内にある駿風寮の寮長である。
1975年4月、沖芳夫厩舎にて厩務員を務める渡辺薫の嫡男として出生、また伯父の古川博も古川平厩舎で調教助手を務める[4]という競馬に近い環境で育ち、1994年3月父の務める沖厩舎の所属騎手としてデビュー、以後現在まで同厩舎に所属し続けている。

デビュー当初より着実に勝ち鞍を積み重ねるも、重賞で人気を背負いながら経験の薄さを懸念される[5]など重賞タイトルにはなかなか手が届かなかったが、1999年ナリタトップロードとのコンビでクラシック戦線にて活躍(詳細は後述)、同馬引退後はGI戦線の常連馬には出会えていないが、関西の中堅騎手として騎乗数や勝ち星を伸ばしている。
この他2007年にはソウル競馬場で行われる韓国国際騎手競走へ招待され初の海外競走への騎乗も経験している(結果は10人中9位)。

ナリタトップロードなどに見られるように、先行からの粘りを最も得意としているが、近年ではタマモホットプレイやカネトシツヨシオーなどに見られるように差し・追い込みにも戦略の幅を広げている。また、時折人気薄を2着に持ってくることから関西では穴騎手として人気がある[7]。
ナリタトップロード

渡辺を語る上で最も大きな存在がナリタトップロードである。1999年のきさらぎ賞で2番人気の同馬に騎乗し勝利。

これが重賞初制覇となった。この年のクラシックにナリタトップロードと共に参戦するが、皐月賞3着、東京優駿2着と、あと一歩のところで届かず、東京優駿のレース後には悔し涙を流した。

そして、秋の菊花賞でGI初制覇を成し遂げた。現在までのところ、これが唯一のGI勝利である。

なお、ナリタトップロードの全8勝中7勝は渡辺騎乗によるものである。
しかし、ナリタトップロードの資質を十分に発揮した騎乗ができていないとの批判もあり、途中的場均・四位洋文と鞍上を交替させられたこともあるが、結局は渡辺の元に戻ってくる。

2001年の阪神大賞典で2戦騎乗した的場から再び騎乗機会が来るが、主戦騎手は俺だと言わんばかりに直線突き放しても追い続け、後続に8馬身差をつけ、さらに芝3000mの世界レコードという勝利を収めている。
その後、落馬によるケガで2002年シーズンの秋は四位洋文に3戦乗り替わる、そして京都大賞典の完勝と秋の天皇賞2着惜敗という結果を受け、渡辺はもう自分の元には戻ってこないと思ったという。

しかしジャパンカップで惨敗し、有馬記念が引退レースとなる。ファンの声もあり渡辺は三たびナリタトップロードの鞍上に帰ってくる。

関係者インタビューでは渡辺が涙で思わず声を詰まらせる場面があった。
産駒のデビューを待っていた矢先、2005年11月7日にナリタトップロードの訃報があった。

その直後に、ベストアルバムに騎乗したエリザベス女王杯での本馬場入場の紹介の際に「ベストアルバム…亡き友に健闘を誓う渡辺薫彦です。」という紹介があった。

競馬商材検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師) TOP