騎手 あ行 | 競馬予想メルマガ検証!競馬投資の極意とは?(競馬の錬金術師)

伊藤工真

伊藤 工真(いとう たくま)は、日本中央競馬会・美浦トレーニングセンターの古賀史生厩舎に所属する騎手である。騎手免許は平地競走と障害競走両方所持している。

伊藤工真来歴

アニマル・ベジテイション・カレッジを経て2004年に日本中央競馬会競馬学校の入学試験に合格し、2005年4月より同校へ第24期として入学した。なお同期入学には8人おり、その中に北村浩平の弟もいたが退学した。

2008年、2月12日に同校を卒業した。卒業時の同期には大江原圭とアニマル・ベジテイション・カレッジ時代からの同期である三浦皇成がいる。そして2月14日に発表された2008年度騎手免許試験に合格し、3月1日付で騎手免許を交付された。デビューの同期には前述の2人に加え内田博幸と鷹野宏史がいる。

デビュー時からの所属は美浦・古賀史生厩舎。3月1日に中山競馬場で行われた第1競走で中央競馬初騎乗を迎え、自厩舎のトウショウブリーズに騎乗して11番人気で9着だった。なお、1着となったのは中央移籍後初騎乗で同期デビューの内田博幸だった。10月26日に東京競馬場で行われた第1競走でサザンスターディに騎乗し、89戦目で初勝利を挙げた。

2010年1月12日に行われた第24回全日本新人王争覇戦で同じく選抜された同期の三浦皇成と共に出場。第1戦・第2戦とも2着に食い込み合計30ポイントを獲得、栄えある新人王の称号を手にした。なお、JRA所属騎手の新人王獲得は第18回に獲得した柴原央明以来である。

伊藤工真エピソード


競馬学校時代からの同期である大江原圭とは生年月日が同じである。
左ききである。

2008年2月12日に行われた卒業記念模擬レースでメイショウブンゴに騎乗して優勝している。これは模擬レース5戦目にして初勝利だった。同日の謝恩会では「素直が一番で賞」を受賞した。
座右の銘は「清心虹光」、目標とする騎手は横山典弘とミルコ・デムーロ、好きなものはご飯、饅頭、団子、野菜とトレセンのブログで語っている。

持病で蓄膿症の為必ずレース中には鼻腔を広げるテープを付けているのがトレードマーク。またパドックにおいて馬に跨った直後、鞭を口にくわえる動作を行うことも特徴の一つとなっている。

食事に非常に気を使っており、通常トレセンの独身寮では食堂で三食とも食事が提供されているにも関わらず、かつて独身寮で隣の部屋に住んでいた松岡正海によれば「自分の部屋で十六穀米を炊いて、食堂に持ち込んで食べている」とのこと(おかずは食堂のものを食べている)。松岡曰く「(独身寮でわざわざ自炊するのは)ジョッキーでは史上初ではないか」という[1]。

伊藤工真データ

日付 競馬場・開催・レース 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2008年3月1日 2回中山1日1R 3歳未勝利 トウショウブリーズ 16頭 11 9着
初勝利 2008年10月26日 4回東京6日1R 2歳未勝利 サザンスターディ 10頭 4 1着
重賞初騎乗 2009年2月15日 1回東京6日11R ダイヤモンドステークス ゴーウィズウィンド 16頭 16 5着
GI初騎乗 2010年5月9日 2回東京6日11R NHKマイルカップ キングレオポルド 18頭 15 12着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2008年 1 6 5 145 .007 .048 .083
2009年 23 34 30 669 .034 .085 .130
2010年 17 44 47 734 .023 .083 .147
通算 41 84 82 1548 .026 .081 .133

石橋守

石橋 守(いしばし まもる、1966年10月23日 – )は日本中央競馬会(JRA)栗東トレーニングセンター所属の騎手。
2003年から美浦トレーニングセンターに石橋脩が所属したため、競馬新聞などでの表記はフルネームの「石橋守」となっている。

石橋守来歴

京都競馬場・上田武司厩舎の厩務員である父・守義の長男として、1966年福岡県瀬高町(現・みやま市)にて出生。その後栗東トレセン設立に伴い1970年秋より滋賀県に移り住む。

父が厩務員という競馬に近い環境で育ち、幼稚園時から騎手になりたいという願望を抱くようになった石橋は小学校よりスポーツを始めるが、「競馬学校に行けば乗馬はいくらでもできる」として親の勧めもあり水泳を選ぶ。幼少時より病弱であった石橋だが水泳での鍛錬によりその体質が改善され、水泳の県大会で上位争いをするまでになったという。

その後競馬学校に進学した石橋は1985年3月3日、競馬学校第1期生(柴田善臣らと同期)として騎手デビューとなる。初騎乗を初勝利で飾った石橋はデビュー年は25勝を挙げ、新人賞を獲得するなど好成績を残す。翌年以降もコンスタントに2桁勝利を挙げ(デビュー以来、毎年2桁勝利を挙げている)、中堅騎手としての位置を確立していった。

1992年にミスタースペインで京阪杯・高松宮杯を制し初重賞制覇。この他ライブリマウントとのコンビで中央の重賞を3勝、当時はGIIだったフェブラリーステークス、地方競馬の帝王賞とマイルチャンピオンシップ南部杯を制覇するなどした。このライブリマウントとのコンビで日本調教馬として第1回のドバイワールドカップに遠征した[1]高松宮杯、フェブラリーステークスは後にGIに格上げ、帝王賞とマイルチャンピオンシップ南部杯も後のダートグレード競走の整備の際にGIに格付けされているため、GIタイトルの獲得は奇しくも逃してしまう。

ライブリマウントでの活躍以降は年間の勝ち鞍こそ2桁に乗せているが、これといってレベルの高い馬に出会うことが出来なかった。それでも関西の中堅騎手としての地位は揺るぎなく、競馬に対する真摯な態度から厩舎関係者や馬主の信頼も厚く、重賞でも人気を背負うような馬の騎乗を任されたりもしていた。しかしその重賞も勝てなくなり、1998年のウインターステークスをマチカネワラウカドで制して以降は重賞勝ちに恵まれていなかった。

メイショウサムソンに騎乗
2006年東京優駿
しかし、2006年には石橋にとって転機が訪れる。1月のシンザン記念をゴウゴウキリシマで制し約7年ぶりの重賞制覇を成し遂げると、新馬戦から乗り続けていた瀬戸口勉厩舎のメイショウサムソンとのコンビ[2]で皐月賞を制し騎手デビュー22年目にして初のGI制覇を成し遂げ、続く日本ダービーも制覇して二冠を獲得し、ダービージョッキーの仲間入りを果たす(三冠を賭けた菊花賞は4着に敗れた)。また、この年の暮れには騎手としての長年の功績が認められ、第39回日本プロスポーツ大賞功労賞を受賞した。

2007年も引き続きメイショウサムソンとのコンビで大阪杯、天皇賞(春)を制したが、宝塚記念2着後に同馬の凱旋門賞挑戦が決定。同時にオーナーの意向で鞍上には武豊を迎えることとなり、コンビを解消することになる。その後、同馬に騎乗することはなかったが、2008年11月のジャパンカップでは武の落馬負傷により再び石橋が騎乗をしている。
2009年、マカオジョッキーシリーズに出場。最終第3戦の重賞G3オータムトロフィーを6番人気のGolden Pistolsで優勝し、海外での重賞初勝利となった[3]。

武が敬愛している先輩としても知られている。行動を共にすることも多く、実際に石橋が皐月賞を制覇したとき、武は自分のことのように喜んでいたという。また、メイショウサムソンがオーナーの意向で武に乗り替わった際も石橋からサムソンの癖などあらゆる点についてレクチャーを受け、後の天皇賞制覇に繋げた。また、栗東所属の騎手たちにも慕われ、皐月賞制覇の際には中山競馬場の騎手控え室で拍手が沸いたという。なお、石橋は武の実兄(一般人の次男)と同級生である。

石橋守表彰歴

1985年、関西放送記者クラブ賞(新人賞)
1992年、フェアプレー賞
2006年、第39回日本プロスポーツ大賞功労賞
重賞勝鞍(中央) [編集]

1992年
京阪杯(GIII)- ミスタースペイン
高松宮杯(GII)- ミスタースペイン
1994年
ウインターステークス(GIII)- ライブリマウント
1995年
平安ステークス(GIII)- ライブリマウント
フェブラリーステークス(GII)- ライブリマウント
1996年
小倉3歳ステークス(GIII)- ゴッドスピード
府中3歳ステークス(GIII)- ゴッドスピード
1998年
東海ウインターステークス(GII)- マチカネワラウカド
2006年
シンザン記念(GIII)- ゴウゴウキリシマ
スプリングステークス(GII)- メイショウサムソン
皐月賞(GI)- メイショウサムソン
東京優駿(GI)- メイショウサムソン
2007年
平安ステークス(GIII)- メイショウトウコン
大阪杯(GII)- メイショウサムソン
天皇賞(春)(GI)- メイショウサムソン
重賞級勝鞍(地方・海外) [編集]

1995年
帝王賞- ライブリマウント
ブリーダーズゴールドカップ- ライブリマウント
南部杯- ライブリマウント
2009年
オータムトロフィー-Golden Pistols

石橋守騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗・初勝利 1985年3月5日 1回阪神4日2R 4歳未勝利 カンキョウツバメ 15頭 3 1着
重賞初騎乗 1987年5月24日 3回東京2日10R 優駿牝馬 ルーペナイト 24頭 21 11着
重賞初勝利 1992年5月17日 3回京都8日11R 京阪杯 ミスタースペイン 16頭 1 1着
GI初勝利 2006年4月16日 3回中山8日11R 皐月賞 メイショウサムソン 18頭 6 1着
障害初騎乗 1987年1月5日 1回京都1日5R 障害未勝利 プロシルバー 12頭 8 中止
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1985年 25 18 34 337 .074 .128 .228
1986年 17 24 28 381 .045 .108 .181
1987年 19 13 9 265 .072 .121 .155
1988年 14 15 23 255 .055 .114 .204
1989年 18 16 18 280 .064 .121 .186
1990年 19 23 26 277 .069 .152 .245
1991年 20 22 27 324 .062 .130 .213
1992年 35 44 35 445 .079 .178 .256
1993年 28 32 43 448 .063 .134 .230
1994年 20 28 33 470 .043 .102 .172
1995年 20 24 36 454 .044 .097 .176
1996年 18 27 30 395 .046 .114 .190
1997年 22 22 22 397 .055 .111 .166
1998年 22 18 29 380 .058 .105 .182
1999年 20 27 18 404 .050 .116 .161
2000年 15 31 24 329 .046 .140 .213
2001年 21 28 23 405 .052 .121 .178
2002年 15 15 25 402 .037 .075 .137
2003年 13 12 23 310 .042 .081 .155
2004年 19 31 17 339 .056 .147 .198
2005年 18 22 23 341 .053 .117 .185
2006年 16 23 16 325 .049 .120 .169
2007年 11 22 15 394 .028 .084 .122
2008年 16 14 16 363 .044 .083 .127
2009年 5 7 6 302 .017 .040 .060
2010年 4 6 10 242 .017 .041 .083
平地 470 564 609 9264 .051 .112 .178
障害 0 0 0 1 .000 .000 .000
地方 22 14 16 151 .146 .238 .344

石橋守メディア出演

ウチくる(2001年4月8日) – 武豊がゲストの回に出演
ZONE(2004年1月18日) – 武豊がゲストの回に出演
武豊TV!
JRAマナーキャンペーンビデオ(2006年)[4]

石橋守参考文献


木村幸治『騎手物語』(洋泉社、1998年)ISBN 4-89691-298-5

石橋守脚注


^ 石橋はドバイワールドカップに日本人で初めて騎乗した騎手である。
^ 当初瀬戸口は鞍上に福永祐一を考えていたが、新馬戦の日には福永は別場での騎乗があったため石橋が騎乗した。また、調教(追い切り)の多くは石橋自らが跨っている。
^ 石橋守騎手がマカオで重賞制覇 – netkeiba.com
^ ビデオギャラリー マナーキャンペーンビデオ(日本中央競馬会)

石橋脩

石橋 脩(いしばし しゅう、1984年4月3日 – )はJRA美浦トレーニングセンター所属の騎手。
関西の騎手に石橋守騎手がいるため、競馬新聞やスポーツ新聞の競馬面の馬柱では石橋脩とフルネームで表記されている。

石橋脩人物

2003年JRA美浦の柴田政人厩舎所属騎手としてデビュー。3月1日の中山競馬第1競走でマグマヴィーナスにて初騎乗(2着)。同年3月29日の中京競馬第8競走でエーピーダイモンジに騎乗し初勝利を挙げる。
この年は長谷川浩大や松岡正海といった若手の中でも乗れる騎手がデビューした年であり、石橋は25勝を挙げ関東新人騎手賞を受賞した。

2年目の2004年は38勝を挙げデビュー年より勝利数を上積み、その後もコンスタントに勝ち続け、2006年4月1日の福島競馬第12競走(喜多方特別)でダンスオブサロメに騎乗し、JRA通算100勝を達成した。なお同じ日に中山競馬第3競走で石橋と仲が良い同期の松岡正海が通算100勝を達成していた。

デビュー3年目より重賞への騎乗機会を2桁に乗せ、ジャガーメイルなど上位人気馬での騎乗もある中勝ち鞍を挙げられずにいたが、2010年1月11日のフェアリーステークスにてコスモネモシンに騎乗し、重賞初勝利を挙げる。
競馬番組「うまッチ!」で「シュウ様」と呼んで欲しいと言っていたが、実際にそう呼ばれているかは不明。可愛らしい顔をしており女性ファンが多い。実際に、2010年4月に中山競馬場で行われ、同月18日に結果発表された「抱かれたい騎手といえば?」というアンケートで第1位に選ばれている。

ゲームが好きでダービースタリオンやブルードラゴン等を好んでプレイする。

石橋脩主な騎乗馬

スクリーンヒーロー(2007年ラジオNIKKEI賞2着)
ジャガーメイル (2008年アルゼンチン共和国杯2着、2009年目黒記念2着)
コスモネモシン(2010年フェアリーステークス)
コスモセンサー(2010年アーリントンカップ)
ストロングリターン(2011年京王杯スプリングカップ)

石橋脩騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 2003年3月1日 3回中山1日1R 3歳未勝利 マグマヴィーナス 16頭 6 2着
初勝利 2003年3月29日 1回中京7日8R 4歳上500万円下 エーピーダイモンジ 16頭 12 1着
重賞初騎乗 2003年12月21日 3回中京6日11R CBC賞 トーセンリリー 16頭 14 16着
重賞初勝利 2010年1月11日 1回中山4日11R フェアリーステークス コスモネモシン 16頭 11 1着
GI初騎乗 2005年10月23日 4回京都6日11R 菊花賞 ディーエスハリアー 16頭 12 14着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2003年 25 26 25 386 .065 .132 .197
2004年 38 46 45 778 .049 .108 .166
2005年 30 28 39 617 .049 .094 .157
2006年 26 34 40 669 .039 .090 .149
2007年 41 56 55 680 .060 .143 .224
2008年 36 24 42 637 .057 .094 .160
2009年 36 37 35 673 .053 .108 .160
2010年 37 40 45 695 .053 .111 .176
中央 269 291 326 5135 .052 .109 .173
地方 7 1 2 75 .093 .107 .133

石神深一

石神 深一(いしがみ しんいち、1982年6月3日 – )は、日本中央競馬会(JRA)・美浦トレーニングセンター所属の騎手。騎手免許は平地競走、障害競走両方の免許を所持している。

石神深一来歴

2001年3月成宮明光厩舎所属騎手としてデビュー、同期には川島信二・小坂忠士らがいる。
デビュー年より4年連続で2桁勝利を挙げ順調なスタートを切るも、2005年2月24日の夜に、茨城県阿見町内を車で走行中に駐在所のブロック塀に衝突する物損事故を起こした。直後に職務質問を受け飲酒運転だったことが明らかになり土浦警察署に道路交通法違反の現行犯で逮捕された[1]。

JRAは直ちに暫定的に石神への騎乗停止処分を下し、その後2回目の裁定委員会の議定の結果、2月25日から6月24日まで4ヵ月間の騎乗停止処分が正式に下されている。

この不祥事や、翌年の落馬による左鎖骨骨折など不運が続き、2005年以降の騎乗数・勝利数はともに減少。2007年より騎乗数確保のため障害競走への騎乗も開始している。

石神深一主な騎乗馬

バイオマスター(2002年外房ステークス)
ソウゴン(2003年ラジオたんぱ賞3着、2004年カネミノブメモリアル、2004年ホマレボシメモリアル)
ニシノセレッソ(2004年新潟記念4着)
テンジンムサシ(2004年アルゼンチン共和国杯2着)
ドラゴンキャプテン(2006年アルゼンチン共和国杯3着)
ブラックレディ(2008年新潟ジャンプステークス2着)
スパイン(2008年駿風ステークス)
テイエムプリキュア(2008年アルゼンチン共和国杯4着)

石神深一騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

地 初騎乗 2001年3月3日 2回中山3日2R 3歳未勝利 ドトウ 16頭 13 12着
初勝利 2001年3月31日 3回中山3日3R 3歳未勝利 ライデンノハナ 15頭 2 1着
重賞初騎乗 2002年6月30日 1回福島6日11R ラジオたんぱ賞 ソウゴン 15頭 13 3着

害 初騎乗 2007年4月29日 2回東京4日4R 障害未勝利 ジンデンバリュー 14頭 12 10着
初勝利 2008年7月13日 2回福島8日5R 障害未勝利 マイネルハーバード 14頭 1 1着
重賞初騎乗 2008年8月23日 3回新潟3日10R 新潟ジャンプステークス ブラックレディ 14頭 10 2着
JGI初騎乗 2009年4月18日 3回中山7日11R 中山グランドジャンプ クロタラリア 15頭 15 13着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2001年 12 12 11 302 .040 .079 .116 –
2002年 17 30 44 531 .032 .089 .171 –
2003年 13 17 26 439 .030 .068 .128 –
2004年 16 15 23 365 .044 .085 .148 –
2005年 5 4 9 219 .023 .041 .082 –
2006年 5 4 13 221 .023 .041 .100 –
2007年 2 6 7 138 .014 .058 .109 0 1 2 18 .000 .056 .167
2008年 2 0 2 85 .024 .024 .047 1 5 2 42 .024 .143 .190
2009年 2 1 1 63 .032 .048 .063 3 2 4 41 .073 .122 .220
2010年 1 0 0 49 .020 .020 .020 3 10 6 53 .057 .245 .358
中央 75 89 136 2412 .031 .068 .124 7 18 14 154 .045 .162 .253
地方 2 1 5 30 .067 .100 .267

池添謙一

池添 謙一(いけぞえ けんいち、1979年7月23日 – )とは日本中央競馬会(JRA)栗東所属の騎手である

池添謙一来歴

武豊に憧れて競馬学校に入り、14期生として1998年にデビュー。初騎乗は同年3月1日、阪神競馬第2競走のナチュラルカラーで12頭立ての6着だった。初勝利は同年3月14日の中京競馬第1競走でタヤスソシアルに騎乗してのものであった。この年にトウショウオリオンで北九州記念を制するなど38勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。

以前は海外遠征も積極的に行う騎手で2001年7月13日、ドーヴィル競馬場第4レースのHATHAARIでフランス初騎乗を果たした(18頭立ての着外)。このレースは武豊が騎乗予定であったが、前のレースで落馬負傷したため、翌日にデビュー予定であった池添に騎乗依頼があったもので、池添は見学に来ているため馬具を持ってきておらず、武やオリビエ・ペリエから馬具を借りてレースに臨んだ。

2002年4月7日、桜花賞でアローキャリーに騎乗、単勝13番人気の低評価を覆し初のGI勝利を挙げる。
デュランダルとのコンビでスプリンターズステークス(03年)やマイルチャンピオンシップ(03年、04年)を制覇。またスイープトウショウとのコンビで秋華賞(04年)と宝塚記念(05年)、エリザベス女王杯(05年)を制した。
2007年9月9日に史上73人目となるJRA通算500勝を達成した。また、同年12月2日の第59回阪神ジュベナイルフィリーズをトールポピーで制覇しJpnI勝利を収めた。

2008年5月25日、優駿牝馬(オークス)をトールポピーで制覇し、自身9度目のGI(JpnI)勝利を収めた。しかしこのレースでは、最後の直線走路で急に内側に斜行し、走行妨害に至らない危険騎乗をしたものとして開催2日間の騎乗停止処分をJRA裁定委員会より受けた(トールポピーに降着処分は科されてはいない)。この降着無しで騎乗停止という裁定に対しては、多くの競馬ファンや評論家から疑問の声があがった。

2009年12月27日、第54回有馬記念をドリームジャーニーで制覇。同年の6月28日に開催された宝塚記念も同馬で制覇しているため、自身初となる春秋グランプリ制覇も成し遂げる。
2011年4月24日、オルフェーヴルに騎乗し皐月賞で優勝。初の牡馬クラシック競走制覇となった。同年5月29日には、オルフェーヴルで日本ダービー優勝、牡馬クラシック2冠を達成した。デビュー14年目、7度目の挑戦でダービージョッキーの座を手にした。

池添謙一家族

父はJRAの元騎手で現調教師の池添兼雄。父の厩舎の主戦騎手としての騎乗も多い。父は騎手時代には障害競走を中心に騎乗し、重賞も制するなど障害の名手の一人であったが、子の謙一はデビュー以来一度も障害戦への騎乗がないまま、障害免許を返上している。
弟は父の厩舎に所属する調教助手の池添学。妹はバレット(=騎手の助手に相当するもの)を務めている。
妻はタレントの堀あかり。2008年11月に結婚した。

池添謙一人物

勝利するとよくガッツポーズをする騎手であり、まれに未勝利戦を勝ったときでもガッツポーズすることがある。2008年のオークスでは後に騎乗停止を受けるほどの斜行をしたにも関わらず、当人はそのことに気づかずに審議中にウィニングランを行ったほか、ガッツポーズや投げキッスなどの派手なパフォーマンスを行った(勝利騎手インタビューでは「他の馬に迷惑をかけてしまって」と青ざめた表情で反省していた)。

初のGI勝利となった2002年の桜花賞では、テレビ中継の勝利騎手インタビューや表彰式の馬上で号泣した。スイープトウショウで秋華賞を勝利したときにはデビュー時の所属厩舎である鶴留明雄の管理する馬での初GI勝利ということもあってかまた涙を流した。2009年の有馬記念優勝のときには中山競馬場内に池添コールが沸き起こり、念願のグランプリ制覇に感極まって、ここでも号泣した。さらに、2011年の日本ダービー優勝の際にも、ウイニングランやテレビ中継のインタビュー中に涙を見せた。

本人曰く「太りにくい体質」のため、他の騎手の多くが負担重量の関係で減量に苦しむ中、ほとんど減量の必要がないという。「サウナに入りながら『ガリガリ君』を食べるのが楽しみ」とのことだが、同じサウナで他の騎手が汗取りを行っている中で食べるため、1期先輩の武幸四郎によく怒られている[1]。

顔が落語家の月亭八方の息子である月亭八光に似ているとも言われるが、本人は雑誌のインタビューにおいて、「調子がいい時は周囲から『堂本剛や櫻井翔に似ている』と言われることがある」と答えている[2]。

池添謙一代表騎乗馬

スイープトウショウに手こずったというエピソードが数多くある。2005年の天皇賞(秋)では本場馬入場時に同馬が全く動こうとせず、返し馬を中止して係員がスタート地点まで引っ張っていき、池添がこれを追いかけていくという珍事もあった。
ヤマカツスズラン(2001年クイーンステークス、2002年マーメイドステークス、全日本サラブレッドカップ)
アローキャリー(2002年桜花賞)
デュランダル(2003年スプリンターズステークス、2003年・2004年マイルチャンピオンシップ)
スイープトウショウ(2004年チューリップ賞、秋華賞、2005年宝塚記念、エリザベス女王杯、2006年京都大賞典)
シーイズトウショウ(2004年・2005年函館スプリントステークス、2006年CBC賞、セントウルステークス)
プライドキム(2004年兵庫ジュニアグランプリ、全日本2歳優駿)
トールポピー(2007年阪神ジュベナイルフィリーズ、2008年優駿牝馬)
ドリームジャーニー(2008年小倉記念、朝日チャレンジカップ、2009年大阪杯、宝塚記念、有馬記念)
オルフェーヴル(2011年スプリングステークス、皐月賞、東京優駿)
カレンチャン(2011年阪神牝馬ステークス、函館スプリントステークス、キーンランドカップ)

池添謙一騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1998年3月1日 1回阪神2日2R 4歳未勝利 ナチュラルカラー 12頭 10 6着
初勝利 1998年3月14日 1回中京5日1R 4歳未勝利 タヤスソシアル 12頭 1 1着
重賞初騎乗・初勝利 1998年7月26日 4回阪神4日11R 北九州記念 トウショウオリオン 14頭 12 1着
GI初騎乗 2000年10月15日 4回京都4日11R 秋華賞 ヤマカツスズラン 18頭 7 2着
GI初勝利 2002年4月7日 2回阪神6日11R 桜花賞 アローキャリー 18頭 13 1着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 表彰
1998年 38 31 52 522 .073 .132 .232 JRA賞(最多勝利新人騎手)、関西放送記者クラブ賞
1999年 27 29 37 412 .066 .136 .226
2000年 40 34 38 422 .095 .175 .265 フェアプレー賞(関西)
2001年 62 51 62 579 .107 .195 .302 フェアプレー賞(関西)
2002年 79 59 51 689 .115 .200 .274
2003年 53 63 58 692 .077 .168 .251 フェアプレー賞(関西)
2004年 54 69 38 660 .097 .202 .259
2005年 58 59 53 639 .091 .183 .266
2006年 44 41 55 584 .075 .146 .240 中京競馬記者クラブ賞
2007年 62 60 48 638 .097 .191 .266
2008年 49 57 57 603 .081 .176 .270
2009年 48 59 50 579 .083 .185 .271
2010年 73 83 81 734 .099 .213 .323
中央 697 695 680 7753 .090 .180 .267
地方 15 18 19 186 .081 .177 .280

池添謙一メディア出演


『武豊TV!』および『武豊TV!II』では、「教えて豊さん」のコーナーでナビゲーターを担当している。

池添謙一その他

騎乗時の帽子の紐は赤を使用。
2005年と2006年の夏競馬において、2年連続で2回小倉5日目第7競走で落馬するという珍記録を持っている。『武豊TV!』での発言によると2005年は鎖骨骨折、2006年は意識不明で病院に運ばれるという結果を引き起こしたため、2007年は小倉に参戦することをやめようか本気で考えていたという。結果的には北海道シリーズ(札幌・函館)を中心に騎乗し、2007年の2回小倉5日目(7月28日)は函館に参戦した。

池添謙一脚注

[ヘルプ]
^ 『武豊TV!II』(フジテレビTWO)第11回
^ 『UMAJIN』2010年3月号

池崎祐介

池崎 祐介(いけざき ゆうすけ、1988年11月7日 – )は日本中央競馬会・美浦トレーニングセンターに所属する騎手。
座右の銘は「初志貫徹」[1]。目標とする騎手はクリストフ・ルメール[1]。

池崎祐介来歴

2007年、美浦・池上昌弘厩舎の所属騎手としてデビュー。同期生から1週遅れとなる3月10日に初騎乗を果たすも、翌日に騎乗停止処分を受ける。
この後も騎乗馬に恵まれず、この年は71戦0勝という結果に終わり、デビューからわずか1年後に未勝利のまま同厩舎を離れフリー騎手へと転向となった[2]。
デビューから1年2か月を経た2008年5月11日、新潟競馬場第1レースのフジマサルビーにて初勝利を記録、デビュー97戦目での白星を挙げる。
初騎乗以来平地競走のみに騎乗していたが、若手騎手の負担重量特典が失われた4年目の2010年には騎乗数が大幅に減少、同年12月より騎乗数確保のため障害競走への騎乗を開始している。

池崎祐介騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
平地 初騎乗 2007年3月10日 2回中山5日12R 4歳上1000万円下 ハセノダンディ 16頭 14 11着
初勝利 2008年5月11日 1回新潟4日1R 3歳未勝利 フジマサルビー 15頭 6 1着
障害 初騎乗 2010年12月5日 5回中山2日4R 障害未勝利 プロスペクタス 14頭 11 8着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2007年 0 1 2 71 .000 .014 .042 –
2008年 2 1 1 99 .020 .030 .040 –
2009年 3 1 5 182 .016 .022 .049 –
2010年 0 0 0 30 .000 .000 .000 0 0 0 2 .000 .000 .000
中央 5 3 8 382 .013 .021 .042 0 0 0 2 .000 .000 .000

池崎祐介脚注

^ a b c 【競馬学校】卒業生(=新人騎手)紹介(1)「池崎祐介」(競馬学校ブログ、2007年2月21日)
^ 増沢騎手など5人がフリーに

五十嵐雄祐

五十嵐 雄祐(いがらし ゆうすけ、1984年2月16日 – )は、JRAの美浦トレーニングセンターに所属する騎手。障害競走の騎乗が中心だが平地競走の免許も所持している。

五十嵐雄祐来歴

2002年、第18期生として競馬学校騎手課程を卒業し騎手免許取得。同期には田辺裕信、柴原央明、竹本貴志、南井大志などがいる。デビュー翌週には障害競走への騎乗も行われ、12勝(平地11勝、障害1勝)を記録し民放競馬記者クラブ賞を受賞した。
減量の取れる3年目以降平地への騎乗は減少するも、障害競走では騎乗機会を次第に増やし2007年に障害重賞を初制覇。2009年は障害競走で14勝を挙げ、年間障害競走最多勝利となった。

五十嵐雄祐主な騎乗馬

ベストグランチャ(2007年東京オータムジャンプ)
リワードプレザン(2007年中山グランドジャンプ2着)
エリモマキシム(2009年新潟ジャンプステークス)
エーシンディーエス(2010年京都ハイジャンプ)
ランヘランバ(2010年小倉サマージャンプ、京都ジャンプステークス)

五十嵐雄祐騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順

地 初騎乗 2002年3月3日 1回中山4日12R 4歳上1000万円下 ヨイチキナコ 16頭 7 8着
初勝利 2002年4月28日 3回東京4日12R 4歳上500万円下 ラビットミレニア 15頭 4 1着
重賞初騎乗 2003年7月13日 2回福島8日11R 七夕賞 ダイワカーソン 13頭 13 12着
GI初騎乗 2005年6月5日 3回東京6日11R 安田記念 フジサイレンス 18頭 18 16着

害 初騎乗 2002年3月9日 1回中山5日5R 障害未勝利 テンビーエース 14頭 12 12着
初勝利 2002年8月3日 2回新潟7日5R 障害未勝利 ヤマニンサイボーグ 14頭 1 1着
重賞初騎乗 2002年10月12日 3回中山3日9R 東京オータムジャンプ マルゴウィッシュ 12頭 11 中止
重賞初勝利 2007年10月13日 4回東京4日9R 東京オータムジャンプ ベストグランチャ 14頭 3 1着
JGI初騎乗 2004年12月25日 5回中山7日10R 中山大障害 イサミゴマ 13頭 13 9着
年度 平地競走 障害競走
1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
2002年 11 6 8 189 .058 .090 .132 1 5 3 23 .043 .261 .391
2003年 13 15 23 340 .038 .082 .150 0 2 6 32 .000 .063 .250
2004年 9 16 9 262 .034 .095 .130 2 0 3 29 .069 .069 .172
2005年 3 3 1 98 .031 .061 .071 2 2 2 35 .057 .114 .171
2006年 1 1 2 42 .024 .048 .095 3 2 1 39 .077 .128 .154
2007年 2 2 3 59 .034 .068 .119 6 3 9 60 .100 .150 .300
2008年 2 1 1 47 .043 .064 .085 2 1 4 56 .036 .054 .125
2009年 1 1 1 39 .026 .051 .077 14 5 7 76 .184 .250 .342
2010年 0 0 0 19 .000 .000 .000 13 5 6 75 .173 .240 .320
中央 42 45 48 1095 .038 .079 .123 43 25 41 425 .101 .160 .256
地方 1 1 4 22 .045 .091 .273
エピソード [編集]

2004年4月6日に行われた竹本貴志騎手の葬儀では、友人代表として弔辞を読み上げた。

五十嵐雄祐関連項目

騎手一覧
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表・話・編・歴
JRA賞最多勝利障害騎手
1980年代
87 該当者なし / 88 臼井武 / 89 星野忍
1990年代
90 星野忍 / 91 押田年郎 / 92 北村卓士 / 93 中竹和也 / 94 北村卓士 / 95 田中剛 / 96 北村卓士 / 97 林満明 / 98 田中剛 / 99 熊沢重文
2000年代
00 熊沢重文 / 01 田中剛 / 02 熊沢重文 / 03 嘉堂信雄 / 04 熊沢重文 / 05 横山義行 / 06 西谷誠 / 07 西谷誠 / 08 西谷誠 / 09 五十嵐雄祐
2010年代
10 五十嵐雄祐

飯田祐史

飯田 祐史(いいだ ゆうじ、1974年11月18日 – )は、JRA栗東トレーニングセンター・飯田明弘厩舎に所属する騎手である。父は調教師の飯田明弘。

飯田祐史来歴

1993年、第9期生として競馬学校騎手課程を卒業しJRAの騎手免許を取得する。同期には伊藤直人、小林徹弥らがいる。
JRA初騎乗は3月6日阪神2R父の管理馬メイショウアルマダに騎乗し14着。同日6R、同じく父の管理馬マイネルアルファで勝利しJRA初勝利を挙げる。デビュー年は19勝を挙げ関西新人騎手賞を獲得している。

その後順調に勝利数を伸ばし1999年には自己最高となる42勝を記録。さらに夏の小倉リーディングも獲得などの実績により、秋にはマカオでの交流競走派遣騎手にも選出されている[1]。

同時期に飯田はブゼンキャンドルに騎乗し、トライアル競走で秋華賞への優先出走権を獲得しながら、先述の交流競走と日程が重なるため本番での鞍上を安田康彦に譲るという不運もあったが、後に「僕が乗っていたら安田さんのような思い切った騎乗はできなかった」と語っている[2]。

2000年にはメイショウオウドウとのコンビで大阪杯を制しJRA重賞初勝利を達成した他、同馬にてGI競走での最高着順を記録し、関西中堅騎手として活躍を続けるも、2002年2月レース中の落馬により右鎖骨々折及び左股関節脱臼の重傷を負う[3]。
当初全治6ヶ月と診断されながら3ヶ月の休養で復帰を果たし、この年重賞2勝を含む22勝を挙げているが、この負傷事故以降の勝利数は10勝台で推移している。

飯田祐史主な騎乗馬


メイショウオウドウ(2000年大阪杯、マイルチャンピオンシップ3着、2001年安田記念3着、鳴尾記念など)
メジロマイヤー(2002年きさらぎ賞)
アラタマインディ(2002年小倉記念)

飯田祐史騎乗成績

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1993年3月6日 1回阪神3日2R 4歳未勝利 メイショウアルマダ 15頭 10 14着
初勝利 1993年3月6日 1回阪神3日6R 4歳新馬 マイネルアルファ 11頭 4 1着
重賞初騎乗 1993年3月21日 1回阪神8日11R 4歳牝馬特別 ショウザンダイヤ 16頭 15 5着
重賞初勝利 2000年4月2日 2回阪神4日11R 大阪杯 メイショウオウドウ 16頭 1 1着
GI初騎乗 1993年11月14日 6回京都4日10R エリザベス女王杯 タカノプリマ 18頭 17 15着
年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率
1993年 19 28 28 342 .056 .137 .219
1994年 33 21 25 365 .090 .148 .216
1995年 28 25 26 339 .083 .156 .233
1996年 19 23 19 291 .065 .144 .210
1997年 17 20 24 298 .057 .124 .205
1998年 26 38 29 343 .076 .187 .271
1999年 42 51 41 481 .087 .193 .279
2000年 25 50 32 459 .054 .163 .233
2001年 33 28 27 438 .075 .139 .201
2002年 22 12 21 298 .074 .114 .185
2003年 15 15 21 333 .045 .090 .153
2004年 14 17 23 252 .056 .123 .214
2005年 7 15 16 249 .028 .084 .149
2006年 14 9 14 263 .053 .087 .141
2007年 5 8 4 185 .027 .070 .092
2008年 19 10 17 220 .086 .132 .209
2009年 16 15 17 251 .064 .124 .191
2010年 10 11 13 229 .044 .092 .148
中央 364 395 397 5636 .065 .135 .203
地方 9 8 10 77 .117 .221 .351

安藤光彰

安藤 光彰(あんどう みつあき、1959年1月5日 – )は、日本中央競馬会(JRA)・栗東トレーニングセンター所属(フリー)の騎手である。2007年2月までは笠松競馬場所属、同年3月から2009年1月までは美浦トレーニングセンター・菊川正達厩舎所属の騎手だった。当時の勝負服の服色は胴紫、白山形一本輪、袖黄。愛知県一宮市出身。同じくJRA騎手の安藤勝己は実弟、長男・安藤洋一は大井競馬場所属の騎手。

安藤光彰来歴

出生から幼少時までの姓は「北浦」であったが中学3年時に両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親は後に復縁したが復縁時には逆に父親が安藤籍に入った為、本名は現在でも「安藤光彰」である[1]。

初騎乗は1976年10月20日。翌10月21日には早速初勝利を挙げる。笠松競馬時代は小井戸金一厩舎に所属し、これまでに地方競馬において2818勝(JRA移籍時)を挙げており、笠松競馬のみならず地方競馬全体を代表する騎手として長年活躍してきた。

JRAにおいては1992年6月27日、第2回中京競馬場3日目第11レース(テレビ愛知賞)でベッスルエースに騎乗したのが初騎乗(12頭立ての4着)。しかしその後JRAにおいては勝ち星に恵まれず、初勝利は7年後の1999年12月19日、第3回小倉競馬場第12レースのラパシオン。地方競馬所属時代のJRA通算成績は12勝(うち重賞2勝)。

2005年12月に地方競馬再興会議での合意に基づき新たに創設された期間限定騎乗騎手制度により、2006年1月10日から3月10日まで大井・高橋三郎厩舎、同年5月1日から6月30日まで船橋・渋谷信博厩舎に所属するなど地元以外の競馬場にも積極的に参戦してきた。

JRAの騎手免許試験も受験してきたが、2006年度の試験を突破(1次試験からの受験であり、競馬学校出身者以外で1次試験からの合格は赤木高太郎、柴山雄一に次いで3人目)し、2007年3月1日からはJRAの騎手として騎乗している。移籍当初から栗東に所属した弟とは対照的に、美浦・菊川厩舎に所属する。

移籍当初、美浦所属とした理由は長男の洋一が公営・大井にて騎手になる修行をしていたためである。同様に、高齢になった家族の世話をする必要がでてきたという理由で、2009年2月から拠点を栗東に移した。[2]


2009年現在、JRA所属現役最年長騎手である。移籍した2007年3月の時点で、調教師に転身した本田優と入れ替わる形で平地最年長騎手となり、同年7月末で当時現役最年長(障害専門騎手)の嘉堂信雄が引退したため、結果的にではあるが安藤は移籍1年目でJRA所属最年長騎手となった。

安藤光彰主な勝利

いずれも中央競馬移籍以前。
全日本サラブレッドカップ – 1997年(トミケンライデン)、2000年(ハカタビッグワン)
オグリキャップ記念 – 2001年(ハカタビッグワン)
CBC賞 – 2003年(シーイズトウショウ)
平安ステークス – 2004年(タイムパラドックス)

安藤光彰脚注

^ 安藤勝己『安藤勝己自伝 アンカツの真実』、エンターブレイン、2003年、12-13頁参照
^ 安藤光騎手、拠点を栗東へ移籍 サンケイスポーツ 2009年1月9日付

安藤勝己

安藤 勝己(あんどう かつみ、1960年3月28日 – )は日本中央競馬会(JRA)の騎手である。栗東トレーニングセンター所属(フリー)。愛知県一宮市出身。血液型A型。笠松競馬場在籍時の勝負服の服色は胴青、白山形一本輪、袖黄。また、兄の安藤光彰も騎手(NAR笠松→JRA)、甥はNAR大井競馬場所属の安藤洋一である。

「アンカツ」のニックネームで親しまれている。出生から幼少時までの姓は「北浦」であったが中学2年時に両親が離婚、母親に引き取られ「安藤」姓となる。両親は後に復縁したが復縁時には逆に父親が安藤籍に入った為、本名は現在でも「安藤勝己」である[1]。なお、兄の光彰は「アンミツ」、甥の洋一は「アンヨウ」「アンヨー」の愛称で呼ばれている。
なお本項では他の安藤姓の競馬関係者と区別するため、特に断りのない限り安藤勝己を「勝己」と表記する。

安藤勝己来歴

安藤勝己笠松時代

兄・光彰が騎手である影響から、勝己は1976年に地方競馬の笠松競馬場で初騎乗。同年12月のジュニアグランプリをシプリアパールで優勝し初重賞を飾る。

翌1977年は78勝を挙げリーディング2位となり、さらに1978年に116勝を挙げリーディングジョッキーとなる。以降リーディングジョッキーに君臨し続け、「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日は無い」と言われるほどであった。1985年に「名古屋の天才」と謳われた坂本敏美が競走中の不慮の事故で引退を余儀なくされた後は、2003年に中央競馬に移籍するまで笠松競馬場のみならず「東海のエース」と称される活躍を見せた(JRA移籍時の通算勝利数は3299)。

安藤勝己笠松時代のお手馬

オグリキャップ
笠松時代のお手馬の中で、中央競馬でも活躍した馬として最も有名であるのがオグリキャップである。勝己は笠松時代の12戦のうち7戦で手綱をとり、その7戦では無敗であった。その後、オグリキャップは笠松を離れ中央へ転厩するが、勝己は当時は中央競馬の騎手免許が無いため騎乗することはできず、中央移籍後は河内洋、南井克巳、岡部幸雄、武豊、岡潤一郎、増沢末夫らJRA所属の騎手が騎乗した。
それでも笠松で行われたオグリキャップの引退式では勝己がオグリキャップに跨りスタンドを2周した(オグリキャップは中央・地方時代を合わせて32戦を戦ったが勝己が跨った7戦という数字は河内、南井と並び最多である)。

オグリローマン
勝己はオグリキャップの半妹であるオグリローマンの笠松時代の主戦騎手も務めた。後にオグリローマンは中央競馬へ移籍し、1994年の桜花賞を武豊を背に制した。
現在では、地方競馬所属騎手が中央競馬で騎乗し活躍することは珍しくない。しかし1994年までは地方所属騎手が騎乗できる中央競馬の競走はオールカマーやジャパンカップといった地方競馬所属馬が出走できる競走や、地方競馬騎手招待競走のみに限られており、勝己が中央の舞台で両馬の手綱を取れなかったのは止むを得ないことであった。

安藤勝己中央競馬への参戦

安藤勝己がJRA初勝利を挙げたのは1980年5月、阪神競馬場で行われた地方競馬騎手招待競走で引退後に種牡馬となったヤマニンスキーによるものである。

1995年は「交流元年」とも呼ばれ、多くの指定交流競走が設けられ中央競馬のGIおよびステップレースが地方所属馬へと大きく開放された年であった。同年、笠松競馬所属で10戦10勝のライデンリーダーとのコンビで中央競馬の重賞・4歳牝馬特別(現・フィリーズレビュー)に出走した。2番人気ながらレースレコードで勝利を収めた。

続く桜花賞では、後の優駿牝馬(オークス)優勝馬・ダンスパートナー、悲願の桜花賞初制覇を目指す岡部幸雄騎乗のプライムステージのサンデーサイレンス産駒2頭を抑え、ライデンリーダーは単勝1.7倍の1番人気に支持された。しかし3、4コーナーで内外を包まれ身動きが取れず、ワンダーパヒュームの4着に敗れた。続くオークスでも1番人気に支持されるが13着に大敗。

秋は1戦した後にローズステークスに挑んで3着に入り、当時の牝馬三冠最終戦であるエリザベス女王杯に出走するが、見せ場なく13着に敗退。結局ライデンリーダーは4歳牝馬特別以後に中央で勝ち星を挙げることはなかった。

安藤勝己中央競馬への移籍

安藤勝己JRA騎手試験を受験

上記のように中央競馬でも重賞を8勝、通算100勝を達成するなど活躍していた勝己は、2001年に中央競馬への移籍を目指してJRA騎手試験を受験するが不合格。

これはJRA競馬学校卒業者と同じく学科試験を課されたからであると言われているが、地方とはいえこれだけの実績を残した騎手を学科試験で不合格にしたのはナンセンスであると競馬ファンや競馬記者からの批判を呼ぶことになった。この事態を受けて、JRAは翌年から、「過去5年間に中央競馬で年間20勝以上の成績を2回以上挙げた騎手」に対し、1次試験を免除する試験要項改定(いわゆる「アンカツ・ルール」)を行い、勝己は2002年に再びJRA騎手試験を受験し合格となった。

安藤勝己中央競馬移籍

2003年
騎手試験合格後中央競馬へ移籍し2003年3月1日、阪神競馬で中央競馬所属騎手としてデビュー。同日の第6競走で移籍後初勝利を挙げる。その後3月30日には高松宮記念(中京競馬場)をビリーヴで優勝し中央騎手デビューから30日というJRA新記録で、また「お膝元」でのGI初制覇となった。また同年、菊花賞をザッツザプレンティで勝利しクラシック競走初制覇。最終的にこの年は112勝を挙げ、リーディング3位となる。
2004年
2004年はキングカメハメハで東京優駿(日本ダービー)を制しダービージョッキーとなるなどGI競走を7勝(中央GI4勝)。
2005年
2005年はスズカマンボで天皇賞(春)初優勝を飾り、JRAでのGI競走初の100万馬券を演出した。
2006年
2006年はキストゥヘヴンで桜花賞、ダイワメジャーで天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップを制覇。
2007年
2007年はダイワスカーレットで桜花賞(連覇)、秋華賞の牝馬二冠を達成。また同馬でエリザベス女王杯も制し、京都競馬場で行われるGI・JpnIの完全制覇を達成した。さらにサンライズバッカスでフェブラリーステークスを、ダイワメジャーで安田記念・マイルチャンピオンシップ(連覇)を制し、中央GI・JpnI6勝を挙げる(2007年11月18日現在GIおよびJpnI計16勝)。これは2005年の武豊のと並ぶJRA記録である。
この年のJRA賞最高勝率騎手を受賞(.238)。なお連対率(.410)&複勝率(.524) 共にこの年のトップであった。11月17日には京都競馬場でJRAタイ記録で史上3人目となる騎乗機会6連勝を達成。またワールドスーパージョッキーズシリーズに出場し、世界中の名騎手たちが参加する中15人中3位と健闘した。
2008年
2008年は阪神ジュベナイルフィリーズをブエナビスタで優勝。また有馬記念をダイワスカーレットで優勝し、有馬記念初制覇と共に中山の芝重賞を初制覇。
2009年
2009年は桜花賞をブエナビスタで優勝し同レース3勝目。また優駿牝馬(オークス)をブエナビスタで初制覇し、これで八大競走の中で制していない競走は皐月賞のみとなった。
2010年
2010年1月30日、京都の第3競走でトウカイレジーナに騎乗し中央1000勝を達成。地方と中央両方で1000勝を達成した騎手は初となる偉業。
2011年
2011年4月10日、桜花賞をマルセリーナで優勝し同レース4勝目。これで武豊の5勝に次ぐ2位タイとなる。

安藤勝己人物像

勝己は自分の騎手への価値観に関し、「笠松競馬場のリーディングジョッキーであり続ける中でリーディングジョッキーに価値を感じなくなり、さらに目指すべき目標がなくなったことで騎手という職業自体に魅力を感じなくなりしばしば騎乗をサボタージュし、南関東への移籍や調教師への転職を考えた時期がある。

しかし地方競馬および中央競馬に指定交流競走が創設され、フェートノーザンやトミシノポルンガに騎乗してそれらの競走に出走する中で競馬に面白さを感じるようになった」と語っている。

2003年の中央移籍後、6年連続でGI勝利ならびに年間100勝以上を達成しており、また移籍後7年で皐月賞をのぞく旧八大競走をすべて制覇している。

2008年ころからはレースに集中するためなどの理由で騎乗数を抑えているが、連対率、複勝圏率は極めて優秀である。騎乗依頼に関しては東西問わずに受けるようにしており、GI請負人として厚い信頼を得ている。

競馬場別では京都競馬場で行われるGI・JpnIを完全制覇しているが、他方で中山競馬場との相性が悪く、2008年の有馬記念を制覇するまではGI級競走を制覇していない上に、その他の重賞もマーチステークスの1勝のみで、芝コースの重賞に至っては上記の有馬記念まで一度も勝てなかった。他方で東京競馬場とは相性が良く、GI級勝利の半数近くを占めている。

中央競馬のGI級競走開催週には中日スポーツ(現在は東京中日スポーツにも掲載)に「アン勝つ」という手記を寄せている。この中日スポーツでは中央移籍後、馬柱の騎手欄で「安藤」と載せたところ読者から「笠松の時代から慣れてきた『安藤勝』表記でないので違和感がある」といったクレームが多数寄せられ笠松時代同様に「安藤勝」と変更したというエピソードがある(他の予想紙・スポーツ紙は「安藤」のまま)。2007年3月からは光彰の中央移籍に伴い、全紙「安藤勝」になっている。

一方で天然キャラでもあり、『武豊TV!II』(フジテレビワンツーネクスト)での武豊の発言によると、自身が参加するレースの距離を把握しておらず本馬場入場の前に「これ、何メートルだっけ」と聞かれることがたまにあり、それでもレースは一着になることがあるとしている。これには本人曰く「レース前に競馬新聞の類は一切読まない」ことも影響している[2]。

年齢による代謝低下の影響もあり、高い勝率・連対率を維持しながらも2009年頃から軽い体重が求められる条件戦を中心に出走数(および勝利数)を減少させている。最近は毎週末レースになると「約5kgほど」の減量を必要とする(通常は「毎週水曜日が体重のピークで、そこから徐々に減らしていく」という)。ただ本人曰く「サウナに入るとすぐに汗をかく」体質で、サウナと水風呂を頻繁に往復することですぐに体重が落ちるため、減量そのものは周囲が思うほど大変ではないとのこと[2]。

安藤勝己主な勝ち鞍

GI級
(斜字は統一GI級を指す)
フェブラリーステークス – 2004年(アドマイヤドン)、2007年(サンライズバッカス)
高松宮記念 – 2003年(ビリーヴ)
桜花賞 – 2006年(キストゥヘヴン)、2007年(ダイワスカーレット)、2009年(ブエナビスタ)、2011年(マルセリーナ)
NHKマイルカップ – 2004年(キングカメハメハ)、2010年(ダノンシャンティ)
天皇賞(春) – 2005年(スズカマンボ)
優駿牝馬(オークス) – 2009年(ブエナビスタ)
東京優駿(日本ダービー) – 2004年(キングカメハメハ)
安田記念 – 2004年(ツルマルボーイ)、2007年(ダイワメジャー)
秋華賞 – 2007年(ダイワスカーレット)
菊花賞 – 2003年(ザッツザプレンティ)
天皇賞(秋) – 2006年(ダイワメジャー)
エリザベス女王杯 – 2007年(ダイワスカーレット)
マイルチャンピオンシップ – 2006年(ダイワメジャー)、2007年(ダイワメジャー)
阪神ジュベナイルフィリーズ – 2008年(ブエナビスタ)
有馬記念 – 2008年(ダイワスカーレット)
帝王賞 – 2004年(アドマイヤドン)
ダービーグランプリ – 2003年(ユートピア)、2004年(パーソナルラッシュ)
マイルチャンピオンシップ南部杯 – 2003年(アドマイヤドン)、2005年(ユートピア)
JBCクラシック – 2003年、2004年(共にアドマイヤドン)
これらは全て中央競馬移籍後であるが、笠松競馬時代にも1989年の帝王賞や1992年のダービーグランプリ(当時は格付け無し)などを勝利している。

重賞
※GIおよびJpnIは上記参照。馬名の後の*印はJpnIIまたはJpnIIIを指す。
中央競馬
GIIおよびJpnII
4歳牝馬特別(西)(1995年ライデンリーダー)
フィリーズレビュー(2003年ヤマカツリリー、2004年ムーヴオブサンデー)
デイリー杯3歳ステークス(1999年レジェンドハンター、2000年フジノテンビー)※現・デイリー杯2歳ステークス
大阪杯(2001年トーホウドリーム、2002年サンライズペガサス、2003年タガノマイバッハ、2008年ダイワスカーレット)
京都新聞杯(2004年ハーツクライ)
ローズステークス(2004年レクレドール、ダイワスカーレット*)
神戸新聞杯(2004年キングカメハメハ)
マイラーズカップ(2006年ダイワメジャー、2010年リーチザクラウン)
毎日王冠(2006年ダイワメジャー)
日経新春杯(2007年トウカイワイルド、2008年アドマイヤモナーク)
京都記念(2008年アドマイヤオーラ)
青葉賞(2011年ウインバリアシオン)
GIIIおよびJpnIII
京阪杯(1999年ロサード)
マーメイドステークス(2000年フサイチエアデール、2001年タイキポーラ)
愛知杯(2001年グランドシンザン)
マーチステークス(2002年マンボツイスト)
チューリップ賞(2003年オースミハルカ、2009年ブエナビスタ)
中京記念(2003年タガノマイバッハ)
ユニコーンステークス(2003年ユートピア、2008年ユビキタス)
函館スプリントステークス(2003年ビリーヴ)
エルムステークス(2003年アドマイヤドン)
朝日チャレンジカップ(2003年カンファーベスト)
アンタレスステークス(2004年タイムパラドックス、2005年ピットファイター)
毎日杯(2005年ローゼンクロイツ、2010年ダノンシャンティ)
ラジオたんぱ杯2歳ステークス(2005年サクラメガワンダー)
ラジオNIKKEI杯2歳ステークス(2006年フサイチホウオー)
きさらぎ賞(2006年ドリームパスポート)
函館記念(2006年エリモハリアー)
新潟2歳ステークス(2006年ゴールドアグリ)
東京スポーツ杯2歳ステークス(2006年フサイチホウオー)
共同通信杯(2007年フサイチホウオー*)
阪急杯(2007年プリサイスマシーン、2009年ビービーガルダン)
ファンタジーステークス(2007年オディール*)
京都牝馬ステークス(2008年アドマイヤキッス)
ダイヤモンドステークス(2008年アドマイヤモナーク*)
キーンランドカップ(2009年ビービーガルダン)
武蔵野ステークス(2009年ワンダーアキュート)
函館2歳ステークス(2010年マジカルポケット)
札幌2歳ステークス(2010年オールアズワン)
関屋記念(2011年レインボーペガサス)
ダートグレード競走
GIIおよびJpnII
オグリキャップ記念(1998年サンディチェリー)※現・SP1
ブリーダーズゴールドカップ(2004年タイムパラドックス)
ダイオライト記念(2005年パーソナルラッシュ、2007年キクノアロー)
関東オークス(2007年ホワイトメロディー*)
日本テレビ盃(2009年マコトスパルビエロ*)
名古屋グランプリ(2009年マコトスパルビエロ*)
GIIIおよびJpnIII
名古屋優駿(1997年シンプウライデン)現・SP1東海ダービー
全日本サラブレッドカップ(1999年マジックリボン、2004年ディバインシルバー)※休止
サラブレッドチャレンジカップ(2001年フジノコンドル、2003年タマモリッチ)※休止
サマーチャンピオン(2002年フジノコンドル)
クラスターカップ(2003年ディバインシルバー)
白山大賞典(2003年イングランディーレ、2005年グラッブユアハート)
黒船賞(2004年ディバインシルバー、2009年トーセンブライト)
北海道スプリントカップ(2004年ディバインシルバー)
スパーキングレディーカップ(2004年グラッブユアハート)
佐賀記念(2005年マルブツトップ)
マーキュリーカップ(2005年ピットファイター、2009年マコトスパルビエロ)
兵庫ゴールドトロフィー(2005年ニホンピロサート、2009年トーセンブライト)
クイーン賞(2005年グラッブユアハート)
TCK女王盃(2006年グラッブユアハート)
マリーンカップ(2006年グラッブユアハート)
笠松競馬
ジュニアグランプリ(1976年シプリアパール、1987年オグリキャップ、1989年マックスフリート、1991年オグリホワイト、1992年サブリナチェリー、1993年オグリローマン、1994年ライデンリーダー、1996年シンプウライデン)※廃止

安藤勝己主な表彰

優秀騎手賞(勝利度数部門・勝率部門・賞金獲得部門)
2003年~2010年
中京競馬記者クラブ賞
2003年
JRA賞最高勝率騎手
2007年、2009年